2020/12/03 17:59
~サフラジェットとは~
イギリスでは女性に参政権が無かった1800年代後半~1900年代初頭(第一次世界大戦頃)にかけて、女性が選挙に参加する権利を主張する団体が現れました。
1897年、ミリセントフォーセットは、女性参政権協会全国連合(NUWSS –参政権協会)を組織し、平和的に投票運動を行いましたが、ほとんど効果がありませんでした。
1903年になると、エメリン・
WSPUは暴力的な抗議を行うことで有名でした。
(当時ロシアからイングランドに亡命してきた人々にシンパシーを受けた)
窓を壊し、放火や爆撃をして、過激で戦闘的な抗議を繰り広げました。
(郵便ポストを燃やしたり酸を注いだり。またクリケット場や競馬場などの富裕層(とくに男性)がいる場所も放火や破壊活動の対象に)
「サフラジェット」という用語は、1906年にデイリーメールのチャールズ・E・ハンズ
が、新聞に彼女達を侮蔑する意味での 蔑称 として掲げました。
しかし、活動家たちは、"suffraGETtes"と、【G】を強く発音し、
【自分たちは投票をしたいだけではなく、それを勝ち取る("get")】
という意味をこめてこの言葉を用い、サフラジェットという名前が世間に広まりました。
1907年になると多くの活動家たちが刑務所に収監され、ハンガーストライキを始めます。
当局は強制摂食を行うなどで対応しましたが、収容者の健康被害の責任を逃れる為、1913年【健康悪化による囚人の一時釈放法(通称:猫とネズミ法)】を可決。
(ハンガーストライキを行った場合、一度釈放して、元気になったら再度収監する)
同1913年初頭、「猫とネズミ法」に対抗し、WSPUは「ボディガード」として知られる女性の一団を作りました。
(WSPUは世間から暴行の対象となっていたので、自らを守る為、柔術を習うなど)
1914年に第一次世界大戦がはじまると、
エメリン・パンクハーストは、全ての戦闘的な女性参政権運動を終了させ、戦争に協力することにしました。
サフラジェット運動は女性参政権運動からいったん離れ、戦争協力に力を注ぐようになったため、結果的にハンガー・ストライキは止み、1914年8月、イギリス政府は女性参政権運動で収監されていた全囚人に恩赦を言い渡しました。
また、サフラジェットが戦争協力に焦点を移したため、世論は【1918年の部分的な女性参政権導入】への好意的な流れに変わりました。
その後、連立政府と女性参政権協会全国連盟に合意がうまれ、1918年2月6日には【国民代表法】が可決されました。
国民代表法 は、21歳以上の男性(※それ以前はイギリス全男性が参政権を持っていたわけではなかった)と、最小限の財産要件を満たす、世帯主である、結婚している、などの細かい条件付きで、30歳以上の女性の参政権が実現し、これにより、840万人の女性が投票する権利を得ました。
1918年11月には、女性資格議会法が可決され、女性が議会議員に選出されることも可能になりました。
1928年に【国民代表法】が改正され、投票権は21歳以上の女性に広げられました。
(※10年前に男性が得ていた同じ条件で投票できるようになりました)
サフラジェット運動(好戦的な抗議)は、今もなお、賛否両論があります。
こうしたサフランジェット運動の活動家および活動支持者に着用されたジュエリー(サフランジェットジュエリーについて)は、
こちら。
【Suffrage (英語:参政権)】